写真をクリックすると拡大表示されます。
また、拡大写真の左右をクリックすると、連続して見ることができます。

我らが青春の墓標

還暦記念誌”華甲"より

 多感な十代後半の青春時代は、学生運動も終焉に向かいつつある時期だった。当時はフォークソングも下火になりかけており、心の目指すべき着地点はいずれも見つからなかったと回想される。
思えば、戦後の食糧難の時代から立ち直りかけた日本に生まれ、神武景気を経験し、伊弉諾景気という高度経済成長時代に青春を過ごした我々は、とりわけ恵まれてはいなかったか。アメリカに追いつけ追い越せ、という号令一下、敗戦からジャパン・アズ・ナンバーワンとなった日本の復興を経験した世代ではなかったか。
 そこで、今回、還暦を記念して、城南高校時代の思い出のある場所を訪ねることにした。実は、現代も、ジャパン・アズ・ナンバーワンとなった日本のバブルが弾け、低迷している経済から抜け出せない時代で、またもや目指すべき着地点がない、ということになっているわけである。そうなれば、若かりし良き時代を偲ぶしかないのではないか、というネガティブ・シンキングの極みではあるが…。

 まず現在の城南高校から出発しよう。昭和43年4月より同46年3月まで青春の入口を過ごしたベース・キャンプである。城南高校入学時は、木造の校舎に木造の体育館だったが、何度も増改築されかつての趣も何処へやら。あの懐かしのプールも何処へやら。
現在の校舎を正門から運動場東側からプールのあった場所に今は体育館

 次に歌にも歌われた城南富士。城南高校を見下ろすように聳える名山だが、すでに昔の上り口が封鎖され、今では気軽に上れなくなっている。
きれいな円錐形の山体
 しかし、我らが探検隊は、茂る灌木、羊歯をものともせず、道なき道を切り開き、滑落何するものぞとの気概で、15分格闘の末、ついに42年ぶりに山頂にたどり着いた。山頂は、羊歯生い茂り、水準点を見つけるのがやっとだった。万歳三唱をして寝転ぶと、青空は何処までも美しく、つかの間青春時代に戻ったのであった。

詳しくはこちらの「城南富士登頂記」へLinkIcon

城南富士山頂から見た城南高校城南富士山頂水準点
 さて、次は思い出の通学路に移ろう。最も通学生の多かった涙町。どちらが入口でどちらが出口かわからなかったが、校門のすぐ東側から入ることができた。夜遅く部活から帰るときは、この墓場が怖かった。
涙町入口(出口)涙町出口(入口)の墓場
 同じく、汽車通学生が必ず使った二軒屋駅。当時は、蒸気機関車からやっとディーゼル車になった頃で、乗降客も多かった。その頃とは異なり、現在では広い自転車置き場が設置されているが、乗降客の減少に伴い、セミ無人駅と化している。
現在の二軒屋駅正面

 ハイ、真打ち登場。城南高校を語るときにどうしても外せない「支那そば・よあけ」。城南祭の準備で居残ったときやクラブ活動の帰りや塾に行く前の空腹を満たすために、よく「よあけ」に駆け込んだ。今や徳島ラーメンブームに乗っかって、行列ができることもある。おっちゃんはもうすでにいないが、それでも皇統連綿たる味は引き継がれている。
現在のよあけ本店
 同じく、授業中に早弁してしまい、昼食時に校外脱走して昼定食を食べに行った「お福食堂」。今でも女主人よっちゃんがやっている。
現在のお福食堂
 同じく、部活後や放課後に東門を出て「かどや」に行ってよくうどんをかっ込んだ。旨くはないが、とにかく安かった。みんな自己申告で料金を支払った。三杯食べても一杯分しか払わなかった猛者もいた。しかし、その「かどや」も今はない…。
「かどや」が会ったと思われる場所
 ここで、飛び入りしてきた驚きの「黒崎君・増田君が下宿していた山内家」。昼休みに脱走して黒崎昌和君の部屋や増田勲君の部屋で車座になり、煙草を三服して何食わぬ顔で午後からの授業に戻ったあの頃が懐かしい。それでも時間がないときは、男子トイレや屋上でよく吸ったものだった。今やファシズムならぬ嫌煙運動で喫煙者は肩身の狭い思いをしているが、あの頃は本当に良かった。時には徹マンの会場ともなった。
現在の下宿屋山内家
 そう言えば、現在の城南高校の敷地の境界付近に灰皿があった。確かに敷地より一尺ほど外にあるが、これは誰の喫煙用なのだろう。教職員用か? はたまた生徒用か? 生徒も吸える環境にあるということか…。事の真偽はともかく、時代は変わったものだ。


 我々の時代は、自由奔放に青春を謳歌していたように思えるが、その実、先生たちの掌(たなごころ)で遊ばされていたのではないか、という気がする。

 授業中に道路から軍艦マーチが流れてくると、「誰か俺の親指を止めてくれー」と、叫びだしたF君。授業中のT先生曰く、「ワシと同じ事を考えるな!」

 屋上でタバコを吸っていると、後ろから肩をぽんと叩いたT先生。煙草を取り上げられてひっぱたかれるかと思いきや、「儂にも一本くれ」と言われ、あたふたと火を点けて差し上げると、「昨日(きにょう)、お前両国橋のパチンコ屋におったやろ。儂もよう行くけん、出る台教えてくれや」※

 FS実行委員の合宿時、M校長先生から差し入れられたのは、なんと一升瓶。こんな時まで校則のテストをされるのかと思い、結局手をつけずに神棚に祀ったままにしていた。

 学校の授業を欠席して、城東高校の文化祭の舞台でバンドの演奏をしていたとき、真正面に陣取って見ていたのは、担任のK先生。演奏が終わった後、こっぴどく叱られると覚悟していたが、「城東の文化祭に出るなら出るとちゃんと報告しろ。公欠扱いにしてやったのに」と言われた。

 子どもとしてみるのではなく、一介の未熟な大人として見ていてくれたような気がする。細かいことは気にせずにどんどん失敗しなさい、人間として大きくなれ、というような教育方針だったような気がする。

 当時のような教育環境は、今はとてもではないが、望むことはできないだろう。その点からも我々は恵まれた世代ではなかったろうか。青春時代という墓に葬られたこういう時代は二度と来ないだろう。青春時代の墓標に刻むエピタフ(墓碑銘)として次の歌を以て筆を置こう。

    桜咲く春は再度巡れども
        二度と帰らぬ若き青春

(詠み人知らず)



ここからは、還暦記念誌”華甲”には掲載されていません。
※部分は、筆者の体験だけでなく、他の同級生からも似たような声が寄せられています。

残念ながら、2013年6月30日を以て、「支那そば・よあけ」は本支店とも閉店いたしました。合掌…